植物生活編集部 植物生活編集部 2023/02/11

あれから50年|1972年。ビジネス、カルチャー、アートが交錯する 『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(6)ふたりの目撃者


1972(昭和47)年1月15日、20~30代の若き男性フラワーデザイナーが12人、自分たちの力だけで大きなフラワーショーを成功させた。

会場となった新宿の東京厚生年金会館小ホールは座席数700、ほぼ満席だったという。
ショーのタイトルは「エクセレント・トゥエルヴ―花と12人の男たち」。

メンバーのその後の活躍や影響を見るとき、「エクセレント・トゥエルヴ(※以下、「エクセレント12」と表記)」は、日本のフラワーデザイン史におけるひとつのメルクマール(記念碑的なイベント)であったと断言できる。

日本社会が経済成長と公害問題というように光と影を抱えながら劇的に変わりゆく時代にあって、花きの生産拡大と大衆化に対して、フラワーデザインに関係するビジネス、カルチャー、アートは、未分化なままエネルギーを溜め込み膨張し続けていた。

後にも先にもこの時を逃してはできなかったと思われる歴史の瞬間に、このイベントが撃ち込まれたのである。
これは同世代の若きフローリストたちの夢や情熱を代弁し、激しく燃焼させる出来事でもあった。

50年の歳月を経た今、もう一度、資料をもとに当時の状況を振り返り、この歴史的なイベントの意味を考える連載の第3回目。

本連載は8回の記事に分けて連載する。
1. 12人のプロフィールとその後 
2. 伴走者、安齊重男氏との出会い
3. パンフレットに残された手がかり
4. 1971年(前年)の活動を示す二つの資料
5. 新資料の発見、メンバーの覚悟
6. ふたりの目撃者
7. 海外研修、コンテスト、ポスト工業化時代の幕開け
8. エピローグ 「地球の日-花の革命」



過去の記事はこちらへ
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(1)12人のプロフィールとその後
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(2)伴走者、安齊重男氏との出会い
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(3)パンフレットに残された手がかり
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(4)1971年(前年)の活動を示す二つの資料


ふたりの目撃者


メンバー12人のうち、お話をうかがえたのは、田中栄氏(東京)、渡辺富由氏(東京)、飯塚伸哉氏(深谷)の3名であった。
イベントの準備やその後のことなどさまざまなお話を聞かせていただいた。
しかし不思議なことに当日については、3人が3人ともに「ほとんど何も思い出せない」というのである。
ほぼまるまる1年がかりで準備をして当日に臨んだことは憶えているが、その日のことはほとんど何も思い出せないという。

田中さんと渡辺さんは「壺生け」の大きなものをやったような気がする、といい、飯塚さんはしばらく考えたあと、「ヘッドドレス」を制作し、用意したモデルに着せて歩いてもらったことを思い出してくれた。

これが50年という歳月を経た自然な在りようなのかもしれないが、実際、当日はステージ上でそれぞれが作品づくりを同時進行していて、自分のことで精一杯だったそうだ。
他の人の作品はなおさら記憶にないという。

そこで、今度は当日客席にいて、現場を目撃したという二人の人物から話を聞くことにした。
まずひとりは、東京・大手町、はなぜんフローリスト社長、松峰美次氏である。  

 

※「ヘッドドレス」は、人の上半身から頭上高く花を飾るショー形式の装飾で、米国西海岸では戦前から上流階級、富裕層の社交界が主催する盛大なチャリティイベント(Head Dress Ball)として長く続けられている。1960年代に渡米した花関係者の間で強い関心を呼んだ。
 
※松峰氏は76年NFDトップデザイナーコンクールで内閣総理大臣賞・NFD金賞を受賞した。その後も様々な場所で、エクセレント12が、「フローリストのニューウェーブ」だったと語っている(『マイジェネレーションⅡ』草土出版2008)。『日本の花者』(草土出版2014)に作品写真を提供した松峰氏は、「石を生ける」「墨の花」など一連の「もの派」的な作品を一挙に公開した。
 



白い自転車、巨大な黒いゴム風船


松峰氏の話は非常に興味深いものがあった。

「花の仕事を始めてまだ間もない頃で、オーナーからチケットをもらって見に行った。当日の細かい記憶は失われていたが、舞台の後ろに太い金属製のパイプがたくさん並び立てられていたことを憶えている。パイプオルガンのようにずらりと並んでいた」

それ以上に、ひとつ忘れられないことがあるという。

「池田賀男さんがなにか薬品のような液体をまいたりして花をいけたあと、いきなり動力式のエアコンプレッサーを持ち出して起動させた」というのだ。

すると、それまで足元にベタっと敷かれていた黒くて厚い布のようなものがゆっくりと膨らみ始め、やがて直径2メートルを超えるくらいの真っ黒で巨大なゴム風船となって立ち上ってきた。

これには度肝を抜かれたそうだ。

ほかにも福徳さんは傘をいくつも高く組み合わせたものに花をいけていたし、成瀬房信さんは白いオーバーオールを着て登場し、真っ白な自転車に花をいけたあと、それにまたがって舞台を走り回ったりしていたと思う。

当日の様子で覚えているのはそれくらいだが、とにかく強烈な印象を受けた、という思いだけは今でも残っている。

松峰氏は、花屋に勤める時に面接で「花屋さんというのはいったいどんなことをやるのでしょうか」と聞いてあきれられたというくらいで、そんなまだ右も左もわからないような時期に出会い頭でぶつかったような大きな出来事であった。
 
 



『花時間』1998年1月号 「花びとたちの履歴書」((同朋舎、現在はKADOKAWA)から。長髪に白いオーバーオール姿の成瀬房信氏がマイクを持ちながら作品を説明しているようす。イベント当日の写真は、この1枚しか見つかっていない。


 

最初は「エクセレント・イレブン」だった


客席にいた松峰氏に話を聞くいっぽうで、エクセレント12の他のメンバーの消息も尋ねていた。
このコロナ禍の3年で、なかなか会いにゆくこともできない期間があだとなり、福徳氏が転居され、その後連絡が取れなくなってしまった。

お店のあったビルもあとかたもなくなっている。その一方で、深谷市の飯塚伸哉氏とは連絡が取れたので電話で取材を行なった。
飯塚さんは「自分は計画が始まって3ヶ月ほど遅れて参加することになった。だから、最初は【エクセレント・イレブン】で話が進んでいた」のだと教えてくれた。

このイベントの発端は佐納氏が1971(昭和46)年の年賀状でイベントをやろうと声をかけ始めたのがきっかけだったというが、その後、コンテストの入賞やデモンストレーション作品などで頭角を表していた飯塚氏にも声がかかった。

飯塚氏も埼玉県深谷市に所在する花店の跡継ぎで、上野のフラワーデザインスクールで講師をしていた。

アメリカでの研修も経験しており、腕前は申し分ない。

そういうことで誘われたのではないかとおっしゃっていた。
メンバーの人選についての方向性が垣間見えるエピソードである。飯塚氏がメンバーではもっとも遠くに住まいがあったが、毎週の打合わせにも参加し、夜遅くなるとメンバーの部屋に泊まらせてもらったこともたびたびあった。

当時、新婚であった池田孝二氏のアパートにもお邪魔したこともあったと懐かしそうに話された。
 

さて、ここに松峰氏と同じように当日、客席にいた若者がもうひとりいる。
フローラルアーティストのつちやむねよし氏だ。

『フローリスト』誌でも創刊号の表紙をはじめ長いおつきあいがあり、最近では、2021年6月号にもインタビュー記事がある。


今も現役ばりばりのつちやさんが、50年前、厚生年金会館小ホールのうす暗い客席にあって互いに名も知らぬ大勢の中に混ざっていたというのである。
当時20歳そこそこの若者だったつちや氏は、フローリストとして一通りの修行時代を経て自分の店を出したころだった。

「とにかく、くやしかった」という。
「先をこされた…。自分がいるべきなのは、こっちじゃないだろう」と照明で照らされた舞台を見ながらそう思ったそうだ。
と同時に「花でこんなにすごいことができるなら、自分もやってみたい」。

いますぐにでも飛び出していきたいような気持ちで熱くなっていた。


その後のふたりはどうなったか。松峰氏はコンテストなどでたびたび入選し高い評価を得るようになると、間もなく都内大手百貨店のディスプレイやホテルの装飾など猛烈に忙しい日々を送るようになった。
赤坂迎賓館や武道館における政府主催行事の大きな装飾なども手がけている。

一方のつちや氏は六本木に店舗を移すと、数多くのスタイリストや写真家との出会いをきっかけに、広告や雑誌、ディスプレイの仕事を多数手掛けるようになった。



1979年に成瀬房信氏に声をかけられ、マミフラワーデザインスクールが主催するイベント「フローラル・スピリット・オブ・メン」に招かれ、大きなアレンジメント作品を出している。

このとき、デモンストレーターとして成瀬氏のほかに松田隆作氏ら男性ばかり4名のデザイナーがステージに立った。

つちやさんはその後も個展をやったり海外で仕事をしたりするなど忙しい日々を駆け抜けていくのだが、そのなかで広告分野の大きな賞も獲得している。

最初の作品集『FIVE SEASONS』(誠文堂新光社1988)は、このような仕事をまとめたものだ。
こうしてみると、1972年のチケット代はたしかに高価だったけれども、充分にもとが取れた人が多かったのではないだろうか。


※つちやむねよし氏は、東京・六本木のフラワーショップ「ノンノ」を創業し半世紀にわたって経営。伊豆、伊東の兄が育てる花を自分が売るという志を持って上京、歌舞伎座に近い老舗花店に勤めたのを皮切りにいくつかの花店を経験し高円寺で最初の店を開いた。修行時代にはいけばなやマミフラワーデザインスクール(成瀬講師)にも学んでいる。六本木に移ってからはファッションや出版関係からひっぱりだこのフローリストとなった。師と仰ぐ花人、栗崎曻氏との出会いは自身の道を決める大きな出来事であったという。




今回は、ここまで。

次回は時代の動きとフラワーデザイナーたちの活動を見て行こうと思う。
 

< 『エクセレント・トゥエルヴ』の時代はどのような時代だったか>

>> 連載第7回 「海外研修、コンテスト、ポスト工業化時代の幕開け」へ続く 


文・取材/松山誠(園芸探偵)
まつやま・まこと 1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。
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