植物生活編集部 植物生活編集部 2023/04/16

あれから50年|1972年。ビジネス、カルチャー、アートが交錯する 『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(最終回)エピローグ「地球の日-花の革命」


1972(昭和47)年1月15日、20~30代の若き男性フラワーデザイナーが12人、自分たちの力だけで大きなフラワーショーを成功させた。

会場となった新宿の東京厚生年金会館小ホールは座席数700、ほぼ満席だったという。
ショーのタイトルは「エクセレント・トゥエルヴ―花と12人の男たち」。

メンバーのその後の活躍や影響を見るとき、「エクセレント・トゥエルヴ(※以下、「エクセレント12」と表記)」は、日本のフラワーデザイン史におけるひとつのメルクマール(記念碑的なイベント)であったと断言できる。

日本社会が経済成長と公害問題というように光と影を抱えながら劇的に変わりゆく時代にあって、花きの生産拡大と大衆化に対して、フラワーデザインに関係するビジネス、カルチャー、アートは、未分化なままエネルギーを溜め込み膨張し続けていた。

後にも先にもこの時を逃してはできなかったと思われる歴史の瞬間に、このイベントが撃ち込まれたのである。
これは同世代の若きフローリストたちの夢や情熱を代弁し、激しく燃焼させる出来事でもあった。

50年の歳月を経た今、もう一度、資料をもとに当時の状況を振り返り、この歴史的なイベントの意味を考える連載の第8回目(最終回)。

本連載は8回の記事に分けて連載する。
1. 12人のプロフィールとその後 
2. 伴走者、安齊重男氏との出会い
3. パンフレットに残された手がかり
4. 1971年(前年)の活動を示す二つの資料
5. 新資料の発見、メンバーの覚悟
6. ふたりの目撃者
7. 海外研修、コンテスト、ポスト工業化時代の幕開け
8. エピローグ 「地球の日-花の革命」



過去の記事はこちらへ
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(1)12人のプロフィールとその後
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(2)伴走者、安齊重男氏との出会い
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(3)パンフレットに残された手がかり
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(4)1971年(前年)の活動を示す二つの資料
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(5)
新資料の発見、メンバーの覚悟

>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(6)ふたりの目撃者
>>『エクセレント・トゥエルヴ』の時代|(7)海外研修、コンテスト、ポスト工業化時代の幕開け



1972年4月28日、彼らは名古屋にいた


最後に、今回の調査の過程で、非常に興味深いイベントがあったことを知った。

「エクセレント12」イベントから3ヶ月後、メンバーのうち、成瀬房信、池田孝二、飯塚伸哉の3名は名古屋にいた。
若者をターゲットに、名古屋駅前にできた「名鉄セブン」のオープニングイベントにフラワーデザイナーとして呼ばれたのだ。

紹介する写真の多くは『ガーデンライフ』1972年7月号(誠文堂新光社)に掲載されたイベントの様子である。
ここでは、4月28~30日、名古屋駅に隣接する名鉄セブンのオープニングに合わせて行なわれた「オンリー・ワン・アース/地球の日―花の革命」イベントで、エクセレント12のメンバー、成瀬房信、池田孝二、飯塚真哉が大量の花を使って会場の各所を飾った、と記されている。




このイベントを企画したのは、当時すでに天才的な商業プロデューサーとして名を知られていた浜野安宏氏で、単に新しい商業施設の告知のためだけでなく、若者に対して地球規模の環境問題に目を向け行動を促すようなコンセプトを掲げた社会性のあるイベントとして計画した。

その名称は「地球の日―花の革命」という。

この年の夏に計画されていた第一回国連人間環境会議のテーマからこれを先取りした「オンリー・ワン・アース」をスローガンに掲げた。

ローマクラブが「成長の限界」という警鐘を鳴らしたのもこの年であり、72年は環境問題に関する大きな画期であった。
ちなみに「地球は一つ」という歌詞があるアニメソングで有名な「科学忍者隊ガッチャマン」の放送が始まったのもこの年であった。



浜野氏の企画には前段となるイベントがあった。

それは、1971年(名古屋の前年)4月25日日曜日、東京・新宿伊勢丹デパートの前、当時、始まったばかりの「歩行者天国」において伊勢丹のスペースに舞台を設置し最初の「地球の日」イベントを仕掛けた。

このステージではロックのコンサートを行い、地球を大切にし、次世代に手渡すための「質素革命」を訴えたのである。
音楽やアジテーションを聞きつけて、ジーンズに長髪の若者たちがどんどん集まり、歩行者天国の道路を埋め尽くしてしまった。

イベント自体は3時に終了したのだが群衆は動かず音楽も続けられたのだそうだ。

集まった人々の中で何かが動き出していた。イベントとしては大成功であったが、この一回を持って、歩行者天国を利用したあらゆる商業イベントを禁止するという条例ができたほどだった(そのため、その後半世紀近い間、カフェやマルシェのようなイベントが開催できなくなったのは手痛い問題であった)。

浜野氏の著作『質素革命』にはそのときの様子がコンセプトや企画の詳細にわたっていきいきと記されている。

浜野氏は本気で世の中を変えようとしていた。
まさか、それから50年も世界の環境問題が深刻化するとは思ってもみなかったことだろう。

年が変わって1972年は、十分な計画を立てて、東京や大阪ではない地方都市で「地球の日」イベントを企画した。
その企画の目玉が「花」であった。

駅前にできる新しい商業施設を全館花でいっぱいにする。
その中心から街路に向って人を配して、花を配っていくのだ。
もちろん、それだけではない。
地元のアーティストを動員したロックやフォークソングのコンサートのほかに駅を中心にゴミを拾い歩き街をきれいにするチームをボランティアでつくるなど地道でユニークな活動を組み込んでいるのが面白い。

60年代からの「ハプニング芸術」のような現代美術のパフォーマンス・アートを音楽イベントと組み合わせ、今で言うSDGsを先取りしたソーシャルな働きかけをする活動であった。「花(植物)」はここで大活躍した。

東京オリンピックが開かれた1964年から大阪万博の1970年までの間、日本では、ベトナム戦争の泥沼化を受けた平和運動や安保闘争に加え、大規模開発による環境破壊、公害病訴訟など社会は大きく揺れていた。
世界を見ても1968年を中心に大きな社会変革があった。同世代の若者がデモに参加し、声を上げている。
そのような時代にあって、花仕事の先輩たちはどんな思いを抱いていたのか、機会があるたびに訊ねているのだが、多くの人がこれと言って記憶に残るようなことがないという。

とにかくみな若く、朝から夜までよく働いていたというのである。
それでも、この「地球の日」のイベントのようにフラワーデザイナーたちも長髪でジーパン姿の若者の一人として、もさまざまな活動に参加することがあったに違いない。

※浜野安宏氏は、ライフスタイルプロデューサー。若い頃から天才的な手腕を発揮し、60年代から70年代に話題になったディスコやショップを次々に成功させ、その後もFROM-1st、東急ハンズ、AXIS、QFRONT、Q-AX、青山AOなどを 総合プロデュースおよびコンサルタントを行い、時代をつくってきた。株式会社浜野総合研究所 代表取締役社長。主要著書に「ファッション化社会」「質素革命」「浜野商品研究所コンセプト&ワーク」 「人があつまる ストリート派宣言」などがある。 

浜野総合研究所のHP
http://www.teamhamano.com/index.php




驚くほど沢山の花がマスで使われていた。制作のたいへんさが感じられる。





屋上広場は「花の企画社」が集めた大量の花鉢で飾られた。販売も行なわれたという。
切花が配られる様子も掲載されている。ステージは盛り上がり、飾ってある花も客席に投げ入れられた。


ステージだけでなく全館、各階に花が飾られている。





街をきれいにするボランティアチームは集めたゴミを頼んであった名古屋市清掃局の職員に回収してもらったあと、自分たちで制作した「感謝状」を手渡し、喜んでもらったという。

 

イベント「花の革命」


「花の革命」という名称の通り、イベントでは花が大きな役割を果たした。

この事業を任された「花の企画社」(東京)では、富山の球根生産で出る摘花チューリップを中心に切花60万本と鉢花6千鉢を調達し、会場の装飾(20万本使用)のほかに、花の「バザール(販売)」、ファッションショー、駅周辺で切花や草花のタネを配るパフォーマンス(ギフティングフラワー)を支えた。

「花の企画社」の創業者、土井修司氏は、ベトナム戦争当時、幾度も現地を訪ね被災者の支援活動に携わった。
その悲惨な実情を目の当たりにし絶望のなかで帰国後、花を通して世の中を豊かにすることを決意し、1971年に花の企画社を創業したのだという。

会社は氏の思いを引き継ぎ現在も活動を続けている。名古屋のイベントはまさにこの創業間もない頃の大きな仕事であった。
 
当時の新聞記事や雑誌の特集によると 5階にはあの「イケア」が入っている。中日新聞掲載の広告イラストは大橋歩氏によるもので、「セブンフラワーズ」の女性たちが配る雑誌『an・an』を見せることを条件に毎日500名にポスタープレゼントという企画があった。サイン会は、西ますみ、山口いずみ、湯原昌幸。
 
『30年のあゆみ : 名鉄百貨店開店30周年記念社史』(1985年)によると、このときのイベントはいかに話題になり、人を集めたかを次のように記している(第7章 名鉄セブン開店)。
 



『30年のあゆみ : 名鉄百貨店開店30周年記念社史』(1985年)から

ーー 成長するヤング市場をターゲットにした名鉄セブンが、当店の南館としてオープンしたのは、昭和47(1972)年4月28日であった。笹島交差点の西北角に11階建ての住友ビルが建設され、その地下1階から地上6階まで、延面積1万5100㎡(4560坪余)を借り受けた。本館はファミリー、メルサはレディス、それにヤングの名鉄セブンという一大ショッピングゾーンが成立した。(中略)名鉄セブンのオープニングエベント(※ママ)は、スーパー・プロデューサー浜野安宏氏による“地球の日”キャンペーン「花の革命」であった。昭和47年4月28日から3日間、セブンの周辺や店内・屋上に集まった若者たちは約20万人。花・花・花で埋まったエントランスホールや屋上で、若者たちは沸きにわき、ロックやフォークが終日春の街をゆるがせた。ヤングパワーとヤングファッションの爆発。それは強烈な浜野イズムと華麗なセブンのオープンとの合奏であり協奏曲でもあった。
浜野氏は前年4月、新宿で「質素革命」を呼びかけ、東京の若者たちに大きな共感をよび起こして話題になった人。
ヒッピーでもあり、エコロジストでもある同氏は、その強烈な個性により「ワーク・フォア・ピース」を提唱、このオープニングエベントでも若者たちに熱っぽく訴えていた。
『地球は一つしかない。かけがえのないもの。地球上を美しい花やファッションで飾り、平和のために働こう』――。
このスローガンは名古屋の若者たちの心をとらえた。
そして「ワーク・フォア・ピース」のシュプレヒコールがわき起こった。ロックバンドの大演奏も若者たちを興奮させた。このバンドは当地方の楽団を総動員したもの。
『花を持とう、きれいになろう』とステージから男女のモデルたちが、グラジオラスやチューリップを投げかけた。
花とロックと浜野イズムに熱狂したあとは、街頭の清掃。
『地球をきれいにしよう。そのために、まず自分のできることをやろう』と、“MAKE IT CLEAN”のTシャツを着た若者たちが、ほうきとちりとりを持って清掃し、道ゆく人の目をひいた。また、名古屋市清掃局の人たちに感謝状を贈った。ヤング層に新風をまき起こしたこのエベント風景は、1時間番組に編集してテレビ放映され日本中の話題になった。また、プレキャンペーンでは、大勢の応募者の中から選ばれた「セブンガールズ」が、セブンファッションを特集した雑誌「アンアン」を配った。待ちに待った名鉄セブンのオープンは大成功。あらゆる面で本館やメルサとは差別化し、従業員も若手を起用して個性的な店を目指した。1年後に、入口前のアーケードにできた「ナナちゃん人形」は、ヤングたちのマスコットとして人気の的になった。


 

『30年の記録 : 名鉄百貨店開店30周年記念社史』(1985年)に掲載されたページ
 

ここで会場全体の装飾「花の彫刻」を任されたのがエクセレント12のデザイナー3名(成瀬房信、池田孝二、飯塚伸哉)だったというわけだ。

記事では触れられていないが、現地のフローリストにも手伝ってもらった可能性がある。

今後も調査を続けていきたい。飯塚伸哉さんによると、ホテルの部屋は取ってもらっていたが、装飾は明け方まで終わらず、少し休んだだけだった、という。

その頑張りもあってイベントは大成功し、結果、3日間で数十万人を動員できた。ステージでは、花を観客に投げ与えるパフォーマンスが予想を超えてたいへんにウケた。会場全体がノリに乗ったという。

最終日には最高潮を迎え、高揚したアーティストたちによって、ステージに飾られた花までもすべて抜き取られ、ファンたちが伸ばす手のなかに吸い込まれていった。
 


51年を経て、いま、緑豊かな駒沢運動公園を訪ね、歩いてみる。

平日だったが、ジョギングする人、テニスする人、小さな子どもたちを連れて木陰で休む親子といった光景がいかにも平和な優しい気持ちになってくる。

様々な建物があるにも関わらず、視界に写るものが少しも雑然とした感じがなく、やわらかな雰囲気が心地よい。

この公園(競技場)を設計した村田政真氏の奥様、村田ユリ氏は日本の女性フラワーデザイナーのパイオニアであったことを思い出す。

表参道に温室付きの店を構え、真っ白でゆたかな髪をなびかせ外国車を乗り回していたという。

少し歩いて、大階段の下からオリンピック記念塔のある広場を見上げると、12人の若者たちが何度もジャンプしていた空が広々と見えた。




〈謝辞〉
本原稿を作成するために、多くの方にご協力をいただきました。あらためてここにお礼申し上げます。エクセレント12メンバー、田中栄、飯塚伸哉、渡辺富由、松峰美次、つちやむねよし、サトウジュン氏には、たびたび時間をいただき、貴重なお話を聞かせていただきました。
マミフラワーデザインスクール、雑誌『花時間』編集部の方々には大切な資料を快く提供いただき、内容を深めることができました。
本年は、日本のフラワーデザインが動き出した1962(昭和37)年からちょうど60年となる記念すべき年でした。誠文堂新光社でみると、雑誌『農耕と園芸』の姉妹誌として発刊が始まったのが1962年、その後10年目に月刊となってから51年になります。今回の取材を通して50年(60年)という年月が遠い過去のものというより、若い先輩たちがさまざまなことを考え、語り合い、いきいきと動いている姿がとても身近に感じられるようになりました。労働環境はいまよりずっと厳しい時代にあって、それでもなお皆に夢があり、楽しそうに思えるのです。
花や緑の持っている力、その力をより大きく発揮させるデザインが果たすべき役割はいまほど強く求められる時代はないのではないかと思います。企画者と実際に花を制作する人、また材料となる花を生産し流通させる人たち、すべての人々が勇気を持って一歩を踏み出し、挑戦してほしいと心から願っています。
 
2022年11月 松山 誠


文・取材/松山誠(園芸探偵)
まつやま・まこと 1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。


1、『美術手帖』1970年2月号 324号「もの派 発言する新人たち」
2、『宣伝会議』1972年7月号~10月号 浜野安宏氏に聞く〈名古屋「名鉄セブン」オープニング・イベント〉
3、『NFD標準カリキュラム』日本フラワーデザイナー協会 1972
4、『スーパーレディ1009』(上・下) ブックデザイン石岡玲子・成瀬始子 工作舎 1977
5、『日花協のあゆみ : 創立25周年記念誌』日本生花商協会 1980
6、『社団法人日本生花通信配達協会三十年史』日本生花通信配達協会 1983
7、『花と緑の三十年』浅田藤雄 花卉園芸新聞社 1990
8、『社団法人JFTD四十年史』社団法人日本生花通信配達協会 1993
9、『日本いけばな文化史〈5〉いけばなと現代』工藤昌伸 同朋舎 1995 
10、『花の読みかた』さとうてつや 新潮社 1998
11、『余白の芸術』李禹煥 みすず書房 2000
12、『時代を顕す日本の花者KAJIN』草土出版  2014
13、『公益社団法人日本フラワーデザイナー協会創立50周年記念誌』2017
14、『日本花き園芸産業史・20世紀』2019
15、『虚像培養芸術論 アートとテレビジョンの想像力』松井茂 フィルムアート社 2021
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